2016年4月30日 1日目
岩手県陸前高田市気仙町にある一本松を訪れました。
一本松がある場所は、高田松原と呼ばれる景勝地でした。
高田松原は江戸時代の1667年に高田の豪商、菅野杢之助(かんのもくのすけ)が、仙台藩と住民の協力により6,200本の黒松を植栽したことはじまりです。以来、350年にわたって、多くの職人と住民の手によって守られてきました。松の数は7万本にまで増え、その美しさから、国立公園や日本百景にも選ばれていました。
2011年3月11日、三陸に大きな爪あとを残した東日本大震災の津波は、この松原にもやってきました。
地震が発生した14時46分から約40分後、15時23分に最初の波が松原に押し寄せてきました。津波は最大17メートルの高さに達し、7万本の松をほぼすべてなぎ倒しました。350年間、多くの人の手で守られてきた松原が、わずか一回の地震により、この世界から消え去ってしまったのです。
今、かつての高田松原に行っても、そこにはかつての美しい松原はありません。
松原は、太平洋に面する広田湾の奥まった場所にありました。津波が湾に押し寄せた場合、外洋に面した湾の入口が狭く、湾内が広い場合は津波の勢いは弱まります。しかし、広田湾のように湾の入り口が広い場合、津波は勢いを保ったまま、あるいは勢いを増して陸に迫ってきます。
松原はほぼすべての樹が津波にもぎ取られてしまい、残った松はほんのわずかでした。今、「奇跡の一本松」と呼ばれている松もその中の一本でした。赤松と黒松の交雑種で、高さは27.7メートル、松原の中でもとりわけ目立つ、立派な大木でした。江戸時代に植栽され、1839年に芽吹いた松だと考えられています。震災当時、樹齢172年でした。
一本松が生き残った理由は、目の前に立つユースホテルが、津波に対する壁の役割になったからだと言われています。さらに、陸側には高架道路があり、引き潮の影響も弱められました。また、この松はかつても津波にあったことがあり、その際に樹の中腹までの枝がもぎ取られていたため、瓦礫が引っかかりにくかったと考えられています。様々な要因が重なり、他の松が根こそぎ流される中、ほぼ唯一生き残ることができました。
津波のあと造園業者57名が集まりプロジェクトチームを結成し、松の保護が開始されました。
一本松の周囲の土壌は津波により塩分濃度が高くなっていました。さらに地震の影響で地盤が80cmほど沈んでしまい、根が海水につかった状態になっていました。一本松の周囲に鉄板を5メートルの深さまで打ち込み海水の流入を防ぎ、真水を注入しつつポンプで海水を吸い上げ、土壌の塩分濃度を下げる試みがなされました。傷ついた幹は抗生物質入りのペーストが塗られ、藁とプラスチックで囲んで保護されました。
7月には新芽が伸びるなど成長が見られましたが、それ以上の回復は見られず、枯死してしまいました。津波が引くまで10時間ほど海水に浸かっていたため、根が腐れてしまったことが原因と考えれています。
一本松は枯死したあとも、そのままの状態で立ち続け、見学に訪れる人が絶ちませんでした。しかし、枯死した一本松は、強風や台風により倒壊の恐れがありました。
そこで、市は一本松の保護案を募集し、乃村工藝社の、幹を分割して防腐処理を行い、中心に心棒を入れて補強して元に戻し、枝葉は複製するという案を採用しました。この方法により、10年間は保存に耐えうると考えられています。
保存プロジェクトには1億5000万円の費用がかかり、年間20万円の維持費用が見込まれています。
1億5000万円という巨額の費用に反対意見も出ましたが、保存による訪問者誘致により年間数億円の経済効果があること、震災を後世に伝えるためのモニュメントになることなどの理由により、プロジェクトの実施が決定されました。
費用の多くは税金ではなく、「奇跡の一本松保存募金」という募金により集められ、募金額は目標の1億5,000万円を突破しました。
石碑やレリーフでの代用案も出ましたが、恐らくそれではここまでの注目を集めることはできなかったでしょう。この場所で、確かに生きていた樹だからこそ、かつてそこにあった松原の美しさ、それを破壊した津波の恐ろしさを人々の心に訴えることができるのです。
保存された一本松は空高くそびえ立っています。複製された枝葉も、この距離では本物と見分けがつきません。
一本松を訪れたのはゴールデンウィーク初日の4月30日の夕方でしたが、多くの人が近くの駐車場に車を停め、一本松に足を運んでいました。
しかし、周囲にはちょっとしたカフェと土産物屋、ラーメン屋がある程度でした。今後、一本松を中心に観光客向けの施設を充実させることができれば、街の復興、さらに次の世代の成長に大きく貢献できると思います。
評価
- 満足度: ★★★☆☆ 3 近くを通ったら一度行ってみるといいと思います。