司馬遼太郎の『功名が辻』を読みました。戦国時代、一介の武士から大名にまで昇りつめた山内伊右衛門(やまうちいえもん)の物語です。彼を支え、導いた妻の千代(ちよ)の活躍が面白いです。美人で明るく、聡い千代と、ただの貧乏くさい若者の伊右衛門。夫婦が手を取り合って土佐一国の大名の地位まで駆け上る痛快な物語です。
ストーリー
織田信長が全国を制覇しようと躍進するとき、その家中に山内伊右衛門という一人の武士がいた。わずか五十石の馬廻役として働き、「ぼろぼろ伊右衛門」と呼ばれていた彼は、二十三歳のときに千代という、一人の女声を嫁にもらう。千代は美濃では評判の美人で、美濃三人衆に数えられるほどの大郷士の家に母子で世話になっていた。そんな裕福な家庭で育った千代が、武士の中でも最も貧乏な山内伊右衛門の家に嫁ぐことになった。
千代は明るく、そして、聡い娘だった。千代により導かれ、伊右衛門は戦国時代を駆け抜け、やがて土佐国20万石を与えられ、一国の大名の地位に昇りつめる。
現在でも高知城には一豊が騎馬姿で槍を持った銅像が建てられ、数々の逸話が残っている。
千代はいかにして一介の馬廻役であった伊右衛門を大名の地位まで導いたのか。ただの貧乏くさい若者であった伊右衛門は、いかに戦場で武功を上げていったのか。戦国時代を駆け抜けた夫婦の痛快物語。
メモ
二流の人物も一流の人物を見込んで仕えれば、それだけ才幹もみがかれ、励みも鍛えもちがうし、幸運が落ちている機会が多いというものである。(1巻 p.32)
どの国に属するか、誰に仕えるかによって、どこまで昇りつめることができるかが大きく変わります。どの会社に務めるか、誰を上司に持つかが生涯収入や出世に大きな影響を与えるのと同じです。組織で社会的出世を望むなら、自分が属する組織、仕える人は慎重に選ぶ必要があります。
千代が母親の法秀尼から教えられた知恵は、「男というものはいくつになっても子供で、生涯、子供をそだてるようなつもりで夫を育ててゆけばよい」ということであった。(1巻 p.33)
男はいくつになっても子供なのです。
とにかく、家計のやりくりというのは、けちの精神でやっては一家がしみったれてくるし、ソロバン感情だけでやると家のふんいきが殺風景になってくる。やりくりは工芸家的な感覚でやるべきであろう。(1巻 p.114)
家計のやりくりには、芸術的才能が必要です。
(人の世は、運だな)
とおもった。伊右衛門は、信長、秀吉とつねに時運に乗った昇り竜のような大将のもとで働き、防戦ということをかつてしたことがない。
つねに、攻撃する軍にいた。それも常勝軍のなかにいた。間宮康俊の不運は、古ぼけた老大国北上家に仕えていた不幸である。
「主家は選ぶものだ」
とつくづく思った。(2巻 p.233)
どの国で暮らすか、どの組織に属するか、誰についていくか、人生は大きく変わります。
と、秀次はいったが、べつに軽蔑しているわけではなく、そういう物の言い方が好きな男であるらしい。
が、腹は立つ。伊右衛門がいやがるのも、この男のこういう所かもしれない。
(人間、物の言いかた一つでずいぶんと無用の手傷を人に追わせるものだ)(2巻 p.276)
同じ内容を伝えるのでも、物の言い方一つで受け取る人の理解、とくに感情は大きく変わります。そして、感情がほぼすべてを決めます。
「一豊様のしんしょう(財産)は、律儀にましますということでございます。物をたのまれれば必ずおやりなさるし、いらざる人の悪口には口を合わせられませぬし、ひとが御病気だときけば、御自分の食が減るほどご心配なさいます」
(それだけの男だ)
とは千代はおもわない。
それだけでわたくしは満足だ、と千代は思うようになっている。
「ところが」
と千代はいった。
「百才あって一誠足らず、という方がいらっしゃいますね」
ありあまるほどの才気がある。しかし他人のことを真剣に考えるほどの誠がない、
―いわゆる「才覚者」のことを千代はいっているのである。(2巻 p.304)
どれだけの才気があっても、たった一欠片の誠意がなければ、台無しです。
(子の可愛いのは、太閣さま一人ではない)
と千代はおもうのである。健康な神経の世の父母たちは、自分の子の可愛さを、決してひとに押しつけようとはしない。
秀吉の場合、巨大な国費を傾けて天下に押しつけ、示威している。
(淫らな)
という言葉がうかぶのだ。(3巻 p.31)
子が可愛いのは当然のことです。しかし、それを人に押しつけると、相手は反発します。そして、権力者が、力に物を言わせてそれを行うと、「淫ら」に見えるのです。
うれしい、と、千代はおもった。人の世でいくつかの種類の幸福があるかもしれないが、人の客となり、行きとどいて心やさしいもてなしを受けたときの幸福というのは、格別なものであろう。この心のやさしさを芸術化したものが、茶道というものなのである。
だから、そのやさしさも、偽善では茶道の心はにせものになってしまう。(3巻 p.113)
もてなしとは、行きとどいた心のやさしさで行ってこそ、相手を幸せにできるものです。そのさやしさが偽善では台無しです。
秀吉は古今類のない園芸会好きなだけに、その構想の雄大さ、巧みさも比類がない。
遊びにも、
「企画力」
があるので。千代はこの醍醐の花見をみて、つくづく、
(この人が天下を取ったはずだ)
とおもった。たとえば家康の構想力など、秀吉が月だとすればすっぽんどころか、泥がめでしかないであろう。
天下取りも構想力なのである。夢と現実をとりまぜた構想をえがき、あちらを押さえこちらを持ちあげ、右はつぶして左は育て、といったぐあいに、一歩々々実現してゆき、時至れば一気に仕上げてしまう、その基礎となるべきものは、構想力である。
夫の伊右衛門には、構想力はない。律儀いっぽうで売った官僚でしかないのである。伊右衛門だけではない。豊臣家の諸大名はいずれも戦場生き残りの荒大名であり、軍を指揮させてはどの時代の武将よりもすぐれているが、かといって、加藤清正、福島正則、藤堂高虎、池田輝政、浅野長政、黒田長政などに天下を料理できるほどの構想力はあるか。
ない。–所詮は、大名にしかなれぬ、それがせいいっぱいの男どもであった。
家康はどうか。
信長の死後、秀吉と敵対していたころ、しきりと東海、信州、甲州方面を切りとって、自家の勢力をのばしていたようだが、性、慎重に過ぎ、足もとを見すぎ、ばくちをするにしても自分の持ち金のせいぜい一割ぐらいしか張らない、という現実密着の性格をもちすぎている。
飛躍がない。というのは、創造力にとぼしいということである。しょせんは、家康は既成の天下を継承はできても独力で天下を創作することはむりな器であった。(3巻 p.123)
「天下を制する」というのは、力で諸大名を滅ぼすのではなく、「天下を創りあげる」という方が正しい捉え方だと思います。そのためには、「企画力」、構想を考え、実現していく力が必要です。ビジネスで新しいサービスを興すのも同じです。
利口者なら地相をみただけで、ちゃんと目スジが通ってこれはだめだという。ところが伊右衛門はそういうことがわからないから、ひとに、「なんとかならないか」とききまわって案を一つずつこしらえては一つずつ実現してゆくのである。大げさにいえば馬鹿の一得というものであろう。(4巻 p.251)
頭が良くなくても、やりようはあります。できる人に頼るのです。ちゃんと頼ることができる人、周りの人がこの人は自分が助けてあげないと駄目だと思える人、というのは人徳があるのです。
でも、さきに希望がありましょう。人々の暮らしに希望をもたせる、というのが国主の政治のかなめどころでありませぬか。(4巻 p.257)
「希望」があるかどうか、というのは、人という生き物にとってはとても大切なことだと思います。
わなをつくって人を殺せばそのことが伝説となり子々孫々にまで伝わるでしょう。一時はおさまっても、いずれ時がきたときにその伝説で育てられた子孫たちがきっと山内家に復讐をくわだてるでしょう。政治というのはあなた様ご一代きりものもでございませぬ。杉苗を大木にするように百年千年ののちまで考えるべきものです。
今の世代のことはもちろん、次の世代、さらにその先の世代のことまで考えるのが政治のあるべき姿です。